遊佐刺し子
右肩から斜めにかけられた布に
施された見事な刺し子。
遊佐町に残る、
橇曳き法被(そりひきはっぴ)の一枚。
藍染めの木綿や麻に、木綿の糸で模様を刺す。
風を通さず、
袖なしで、軽くて動きやすい。
山の仕事になくてはならないものだった。
鳥海山のふもと、山形県飽海郡遊佐町。
ここでは昔、生活の必需品だった薪を
山から橇に乗せ、
ふもとの村に運んでいた。
男衆たちは橇曳き法被を着た。
それが神聖な山・鳥海山の麓に入る際の
正装だったからだ。
鳥海山には男性しか入ること
ができなかった。
夏から秋にかけ、
山で必要な量の薪を切り出し、
長さを揃えて積み上げる。
冬となり、降り積った雪が、
藁沓(わらぐつ)で歩けるほど凍てつく2月。
男衆たちは橇を持って山へ入り、
薪をのせて下ろす。
突然起こる吹雪で、視界を遮られ、
谷に落ちたり、
木立などに追突することもあった。
命がけの危険な作業。
事故が起きないことを祈って、
橇引き法被は着られていた。
妻たちは一人ひとり、
橇曳き法被に異なる模様を刺した。
世界的に知られるアイルランドの
アラン模様セーター
(漁師が着るフィッシャーマンセーター)
にも同じ話がある。
土門玲子さんが初めて橇引き法被を見たのは
ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館。
「あれっ、これって遊佐になかったっけ?」
「刺してあるのは柿の花文様だ」
遊佐に戻った土門さんがロンドンで見た
刺し子の話をすると、
「うじさもあったっけ
(私の家にもありました)」と話が広がり、
橇引き法被がいくつも見つかった。
補修して使い続けられた日本の作業着。
日本では価値がないと思われた
それらの布や、継ぎはぎをした手法は、
近年、外国で「ボロ」と呼ばれ、
貴重なものとして扱われている。
破れた布に糸を刺した後、
藍で染めれば、
布は強くなり、虫も寄らず長持ちする。
昭和45年には無くなっていたという橇引き法被。
カマドが無くなると同時に、
橇引き法被という文化も無くなってしまった。
表から裏まで二枚重ねで
刺し子が施されている。
陶器のボタンがついているのは
明治時代のもの。
ボタンが買えず、ホックや紐などで留めたもの。
足袋のコハゼを付けたものも。
遊佐刺し子は、模様を描かず、
自分の針目で模様を刺していく。
これは柿の花文様の表。
裏にひっくり返すと、柿のヘタの模様に。
稲を刈り取った後の稲株を表した「草刺し」、
ほかの地域にはない「米刺し」、
優雅に舞う「蝶刺し」など、
独特の文様もある。
遊佐刺し子は約150種以上、確認されている。
土門玲子さんは『「遊佐刺し子とその歴史」研究会』、
「LLP遊佐刺し子ギルド」を設立。
橇曳き法被や、遊佐刺し子の保存や教室、
技術指導を行っている。
これも土門さんの作品。
「刺し子が今後も残っていくように」と
パッチワークと遊佐刺し子を融合させている。
遊佐の名勝「丸池様」をテーマにしたもの。
世界で初めて円形に刺したことが評価され、
文部大臣賞を受賞した「雪花火」。
教えてくれた人/土門玲子さん
洋裁・デザインを学び、遊佐町に店を構える。遊佐刺し子に魅力され、「LLP遊佐刺し子ギルド」を設立し、教室を開催しながら遊佐刺し子の研究・出版・海外での展示・販売を行っている。英語版で出版した本・展示会で、遊佐刺し子は海外でも人気。現地で習いたいと、多くの団体が遊佐を訪れている。